投稿日:2022.10.06
宮戸のムロの木と石巻に眠る秘密
こんにちは!
MOOKS記者のばーちーです。
突然ですが、この記事を読まれる皆様は「歴史」は好きですか?
観光のお仕事は地域に眠る歴史を紐解いていくことでもあります。
今回はそんな教科書には載らない石巻の歴史のお話をご紹介します。
○ムロの木と宮戸三浜の由来
東松島市宮戸地区。 松島湾に浮かぶ島でもあるこの宮戸には、とある偉人にまつわる3つの浜があります。 それぞれ「月浜」「大浜」「室浜」と呼ばれ、主に漁師さんが住む集落です。 この3つの浜の名前にかかわる人物というのが、“護良親王”という平安時代末期に活躍した人物です。
ムロの木が立つ山の看板によると、護良親王は建武2年(1335年)に鎌倉から宮戸に降り立ち、少しの間過ごしていたようです。そこで筆として使用していた枝を挿したところ大樹となったのが、このムロの木のことなのだという逸話です。
また、
親王が上陸した浜を「着き浜」
生活していた浜を「王浜」
室=現代の風呂・休息所があった浜を「室浜」
と呼ぶようになったとされています。(鳴瀬町誌より抜粋)
ここからあてる字が変化していって「月浜」「大浜」「室浜」になったようです。(諸説あり)
○護良親王と石巻
さて、これだけの話であれば、「松島って雅な方の過ごされた場所だったんだなぁ」で終わる話です。問題はここからです。 歴史に詳しい方であればご存じかもしれませんが、護良親王という人は歴史上では1335年に鎌倉でなくなっています。それも10か月の間、牢に幽閉されていました。 「太平記」(南北朝時代の歴史書)によると父後醍醐天皇との不和の末、敵に担ぎ上げられて挙兵するのを避けるため、淵辺義博に命じてその首を取られたとされています。
ですが、石巻にこんな伝承があります。“一皇子伝説”と呼ばれるものです。
石巻市湊地区に「一皇子神社」という場所があります。いかにもな名前ですが、この神社こそ護良親王を祀っている神社なのです。一説によると、淵辺義博による殺害の際、実際には親王を哀れんだ義博により、自らの領土である相模原に親王を逃がし、その後、親交のあった葛西氏の治める現在の石巻市湊地区まで送り届けたということなのです。
実は、親王の首は見つかっていません。「太平記」によると、淵辺義博が親王を討った際、刀に噛みつきまるで生きているかのような形相でこちらを睨んでいたため「このようなものは主君に見せるようなものではない」と近くの藪の中へ捨て立ち去ったとされています。 つまりこの時、義博は親王の首を取ってなく、逃がしたとしても辻褄は合うのです。(あくまで推測の域を出ませんが)
しかし、石巻に親王がいたのではないかとされる名残があるのも事実です。
・御所入(親王の住居があった地)
・御所浦(親王が上陸した浜)
・吉野(後醍醐天皇がいた南朝の地名)
・多福音の吉野先帝御菩提碑(後醍醐天皇を弔うために作られた?)
宮戸にあるムロの木も、親王が途中御休みになられた場所の跡の一つだったということになります。
石巻に眠る歴史のミステリー、いかがだったでしょうか。
護良親王の足跡をたどって旅をしてみるのも面白いかもしれません…
MOOKS記者 ばーちー
・出展:「鳴瀬町誌」
・参考:「超巨大ミステリー!一皇子神社」(海街さんぽ):最終閲覧日2022年9月29日