PICK&UP No.32 株式会社宮富士工業 -石巻市-
(全5回・第1回目)
卓越した技術で夢を!
「現代の名工」後藤春雄社長
石巻市門脇にある創業40年を迎えた鉄工所「株式会社宮富士工業」。
卓越した溶接の技術を持ち、一代で会社を築いてきた代表取締役の後藤春雄
社長に溶接の道を志すきっかけや、これからの夢をお聞きしました。
製造業との出会いは15歳の頃
東京への集団就職
昭和37年当時、日本は高度経済成長期。「金の卵」ともてはやされた若者が集団就職の名の元に上京、日本の高度経済成長を支えました。中学時代、高校進学を目指していた後藤春雄社長(以下後藤社長)ですが、小学生の頃に父を亡くしており家族の事を思い、進学をせず卒業後若くして技術を身につけ自立を目指す道へ進んだのでした。その時、後藤社長は弱冠15歳。東京都大田区にある佐藤螺子製作所(現株式会社サトーラシ)に勤めた事が、製造業との出会いでした。
高度経済成長期に
激動の日本を下支えする工場で
学んだ技術と経験
高度経済成長期で、自動車産業も盛んな時代。佐藤螺子製作所は当時大田区本社工場の他に埼玉県にも工場を進出しており人手が必要で、地方からの就職が大変重宝されたそうです。その会社ではボルトとナットの製造をしていました。若かりし頃の後藤社長にとって全てが新鮮で、先輩の技術者から次々と技術と知識を吸収していきました。20歳の頃、奥様と出会い結婚。そして長男である同法人の後藤春彦専務が誕生。
その頃の日本は、光化学スモッグで注意報が時折ニュースで流れるような他国に追いつけ追い越せの経済成長で、蒲田や川崎の工業団地では様々な製造業の工場が勢いのある時代だったそうです。 仕事に打ち込みながら、常に心の中には地元石巻があったそう。技術を習得したら、自分の生まれ育った地元石巻へ戻り独立を夢見ていた後藤社長。ついに決断の時がきました。
「地元石巻に貢献したい」
26歳の決意
10年間お世話になった会社をあとにし、家族を連れ26歳の暮れに帰郷。石巻に帰ってきたものの、東京で培った技術を活かす職がなかったため石巻技術専門学校で溶接技術を学びました。これが後藤社長「溶接」との初めての出会いです。当時、後藤社長は溶接は面白くて楽しいと思い、これは家族を養っていけると実感したそうです。この頃、後藤社長の次男であり、同法人の常務取締役 後藤貴志さんが誕生。卒業後、5年後の独立を目指し、様々な技術を習得すべく造船所の下請け企業を数社渡り歩きました。
型にはまらない
思考する力を大切に
石巻で最後に務めた会社で、後藤社長は才覚を発揮。常に効率化を考え、会社の為にどんな動きをすれば良いのかを柔軟に考えていたといいます。夏の狭い場所での溶接の仕事は、50度近い灼熱の環境になるそうで、後藤社長は効率化を考え、昼に休ませてもらい夜の涼しい時間帯に作業をすることをその会社の社長に提案し、「なるほど!画期的だね。」と感心されたそうです。そして精力的に仕事を獲得して、人手が足りないとなれば人を探して職人として育て上げ、会社に貢献していきました。その会社の社長さんには「あなたは、俺のもとで働くような人ではないとても力のある人だから、独立しなさい。自分が連れてきて育てた職人で希望者がいれば一緒に連れていってもいいよ。」と、あたたかい言葉をかけてもらい、有り難く受け入れ独立することになりました。そして、34歳で独立し「宮富士工業」を創立。のちに株式会社として、造船業の他、様々な管工事・鋼構造物・機械器具設置業へと発展していきました。とくに溶接技術は国が認める程のクオリティで、ここには掲載ができないのが残念なほどの誰もが知る金属製品を製造しています。
学歴や年齢性別は
一切関係ない
「教えるから、大丈夫。」
現場では三角関数などが日常的に必要とされる方程式ですが、後藤社長曰く「製造に使う際の方程式や計算は学校で教わる方法よりもっと効率的にできる方法があって、今は電卓がそれを補ってくれるから、それらを教えてあげると学生時代に勉強が苦手だった人も、すぐ理解してどんどんできるようになっていくんだ。実際に製品があって計算する役割がわかると人は理解しやすいのかもしれない。学生時代に将来何に使うか分からない数学の方程式をこんなところで使うと知ってびっくりだろうし、楽しいと思うよ。」とおっしゃっていました。
技より人としてを伝えられたら…
高等学校や少年院での講習
東北大学の金属工学の藤田先生との出会いにより、「自分の成長にもつながるから、少年院で溶接を教えてみないか?」と言われ、不安もあったそうですが、「自分でも矯正教育の為に役に立てるのなら頑張ってみようか。」と挑戦してみる事にした後藤社長、当時49歳。 仕事の合間に、年に数回、東北少年院へ出向きました。
「後藤先生、俺でもメシ食えますかね。」
後藤社長の願いは、「親からもらった立派な身体を生かして、技で勝負して生きて行けよ。自分も中卒だけど十分腕で生きて行ける、大丈夫だよ。」「汗を流しながら教える背中を見せることしかできないけれど、技より、人として、を教えたかった」と、後藤社長。体当たりで、矯正教育に取り組んでいました。その講習によって、一日の終わりごろには少年達は明日への希望を話すように変化していく事が後藤社長は嬉しかったそうです。後藤社長が藤田先生にいただいた言葉「教えるは覚えるの道半ばなり」は後藤社長の座右の銘。意味は、「人に教えることは自分がしっかり覚えて本物になるための手立てになる」だそうで、その言葉を胸に高等学校での出前授業は20年間、今も休まず続けています。
現代の名工への挑戦
そしてその称号を手に
藤田先生の勧めで、溶接の業界の発展のために、卓越した技能者表彰制度に基づき、厚生労働大臣によって卓越した技能者に贈られる称号「現代の名工」へ挑戦することに。奥様カナさんの支えもあり、平成24年に見事「現代の名工」に選ばれ、その2年後には、多年にわたり仕事に励んできた、人々の模範たるべき人に対して授与される栄典「黄綬褒章」を受賞されました。
業界の発展や人材育成を
後藤社長は、高等学校への出前授業や、新人育成、業界の発展ために宮城県高校生溶接競技大会を発足するなど、仕事以外の部分へも力を注いで来られました。そしてこれからの夢は、女性でも子育て中や様々な事情で時間が長くとれない方でも生活していけるくらいに収入が得られるように、溶接の技術を広めて雇用創出にも力を注ぐそうです。後藤社長曰く「溶接は繊細な作業で。力仕事とは違うので誰でも飛び込める世界なんです。技術職で専門職だから時給も高いので、短時間で収入を得られるので、色んな人が活躍できるように業界全体を広めて行けたら。」と。今後も株式会社宮富士工業の発展に目が離せません。地元石巻の製造業の発展を願い、第一回を締めくくります。次回は、石巻に初進出の会社のタンク製造の裏側にピック&アップ!どんなお話が聞けるのか楽しみです。
文:上野恵美 写真:同社提供、酒井志帆
株式会社宮富士工業
〒986-0855
宮城県石巻市大街道東二丁目14番15号
tel. 0225-93-8295 fax. 0225-95-2995